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☆2006年10月~南イタリアの アブルッツォ州vasto在住。 生まれてはじめての海外生活 に日々マイペースで奮闘中。
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2006~2010のイタリア周辺やウサギやクルマや諸々の話。2018~は愛する老ワンコとインドに移住中。時々絵日記。リンクフリー。
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※以下心臓が弱い方・血が苦手な方は読まないでください。









秋葉原事件のイタリアでのニュースを読み返していてふと事件のスライド
があるのに気がつき見ると、どれほどの大量の血が流されたことか・・・
しかもケガをした時に流れるような血ではない。
普通見たことの無い、簡単に流されてはいけない真っ赤な鮮血だ。

その血を見た時、先日読んだ日本人向けイタリア情報誌コメヴァに載っていた
屠殺記事を思い出した。
イタリアの田舎町では今でも食用の家畜を自分たちが育てて自分たちで殺す。
記事の内容は淡々としていた。
ただ黙々と行程をこなすイタリア人家族とその様子を生まれてはじめて見る
筆者の間には、ただ静かな時間と豊かな自然があった。












(全ての画像はCOME VA?よりお借りしました)



一部始終を見た筆者は、最初ベジタリアンになる覚悟で出かけたらしい
のだが、その日の昼食時にはもう肉に手をつけていたらしい。
ただ肉を食べる時の心持ちが変わった・・・と。
ベジタリアンになるほどの心意気も繊細な優しい心も無い。
ならば感謝して残さず食し、自分の血とし肉として大事に生かそう。
そう感じたのではないだろうか。



血を流すということは命を奪うということだ。
だから血が流れる時は言葉にならない苦痛が伴うのだ。
奪う方も奪われる方も、本来もっと心を伴う行為なのだ。

今のワタシたちは日常的に痛みや死から遠く離れた場所、
綺麗で清潔だが無機質な場所で毎日を過ごしているので
いろんな感覚が麻痺・無感覚になってしまうのだろう。
せめてもっと想像力を働かせて、死や自然のことを
もっと身近に感じるべきなのではないだろうか・・・
















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「死に対しての感覚」
以前、職場の近くで交通事故があり興味半分で現場を見に行った同僚が蒼い顔で
『…行かなきゃ良かった…』と呟いたのを強烈に覚えています

今回の事件でも人の最期を携帯電話で撮影し赤外線で転送したり
テレビのカメラにフザケテ映り込んだりしていた人の痛みを思いやる事の出来ない人間がたくさん居ました

むかしはもっと身近に『死』と言う感覚が有ったんだと思います
家族も核家族じゃなく一つ屋根の下に何世代かが同居してたし
飼っていた小さな家族が天に召された後も自分達で処理してきた
日常の中に普通に『最期』が有ったんだと思います
でも今は、『生』も『死』も普段生活している空間では基本的に在り得ない
実際みけもお葬式は出席した事はあっても、誰かを見取ると言う経験はありません
でも漠然と『こわい』という感覚は持っています
そして、今回の事件の報道を見聞きする度に沸きあがる不快感は犯人だけじゃなく
ヘラヘラと人間の仮面を被った得体の知れない生き物に対しても感じています
みけ 2008/06/10(Tue)23:32:04 COMMENT編集
「Re:死に対しての感覚」
今回の事件は今の日本の(あるいは世界の)異常さを改めて浮き彫りにした
のかもしれない。
やっぱり「死」や「命」をゲームやアニメ・マンガの中での出来事のような
現実感の無いもの、自分とは関係ない遠い世界のもののように感じているん
だろうか。
みけちゃんのコメントに改めて考えさせられました。
便利で不自由さが無い世界。
綺麗なもの、楽しいものだけを見て見たくないものにはフタをする世界。
でもそれは嘘っぱちの世界なんだよね。
だって世の中は不便で醜いものもいっぱいあって、排除ではなく共存して
いかなくてはいけないことだらけなんだもの。
そしてそれを後の世代に正しく伝えていく義務が私たちにはある。
2008/06/11 06:44
「思う事」
昔は大家族や田舎で親戚関係との
行き来があって、その場面で
人の死というものに遭遇して
「死んだら小さくなっちゃうんだね」
とかのもの思いが
積み重ねられた、当然亡くなられる前の
いろんな意味での苦労も知るんだけど
今はそれが、希薄だからじゃないのかな?

それともう一つ、肉でも魚でも屠殺や
加工の現場を見たりすることも
少ないので食べ物への感謝も薄れているのかも?
ぽち URL 2008/06/11(Wed)07:38:18 COMMENT編集
「Re:思う事」
つまるところ、やはりいろんな関係が希薄になってきて
いるということでしょうか・・・
広く浅くが主流な今、果たしてそれでいいのか?!と
人間全体に問われていることなのかもしれませんね。
ただ単に考える・感じるキッカケだけではなく、実際に
動き出す努力を個人個人がすべき時だと思います。
2008/06/12 08:43
「無題」
俺はガキ(幼稚園位)の頃豚の屠殺を見たことがありますよ。
近所のガキ数人と一緒に、大人に連れられて見に行きました。
社会勉強ですね。
百聞は一見…ですが、百聞する前に一見しちゃいました。
見たことない人が多いんですかね?
想像なんてしてないで、見に行けばよいのに。
大人は子供に色々教えられるのにな。
猟をしてる人もいたし、命を喰うのは珍しいことじゃなかった。
ただね、思うんですけど、そうやって育つと喰う命と飼う命を
明確に自分の中で分けるようになります。人の命も。
俺だけかも知れないけど。
どれも大事ですが、屠殺で奪われる命、身近な人の亡くなった
命、これって全然違う次元の話です。俺には。
それが良いことか悪いことか…は、俺にはよく分かりません。
獅々丸 2008/06/11(Wed)09:35:51 COMMENT編集
「Re:無題」
実際に見る経験があるヒトは少ないと思います。
強制することでもありませんしね。^^;
想像することは大事だと思います。死に関してだけではなく、
実際に見ることは出来ないけれど確かに存在して人間に影響を
及ぼすものはたくさんあるからです。
命の違い?!はワタシはヒトそれぞれだと思います。
同じだと思うヒトもいれば違うと感じるヒトもいるでしょう。
ただ自分の命が大事だと思うなら、自分以外の命も大事だと
思うべきだとは思います。自分だけが特別だとは思わないので。
2008/06/12 08:49
「無題」
屠殺は生きるための人間の罪の行いですよね(仏教的価値観で言うと)。殺すという行為では同じかも知れませんが、生きる糧となる犠牲に対しての感謝を日々、いただきますと言うわけです。

残された被害者、被害者の家族、加害者の家族、親戚の生きていく悲しみ、痛みを感じることができるんでしょうか?
noroemon 2008/06/12(Thu)02:50:38 COMMENT編集
「Re:無題」
ちょっと書き方に誤解を生む要因があったかもしれませんが、
ワタシは件の事件と屠殺を同じ土俵の上のこととして書いた
わけではないんです。ただ最終的には「ではこの事件の犯人が
ヒトを殺すことをどう感じたのだろうか」と思って最後の結び
にこのようなことを書きました。
彼はどうか・・というより自分はどうか?という問いに近いの
かもしれませんけれども。
2008/06/12 09:02
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